Archives for the ‘大地’ Category

ものとこと

劇団きこり展 「あと、水もね」には盟友である河合悠さんを客演としてお呼びいたしております。参考館の民藝な品々に紛れ込むようにして作品が展示してあります。入園料がかかりますが、この機会にぜひ足をお運びください

場所:濱田庄司記念益子参考館館内、および濱田窯長屋門
栃木県益子町益子3388、3387
日時:7月28日~8月11日 9時30分~17時
定休日:月曜日

劇団きこり展

劇団きこり展 「あと、水もね」
客演:河合悠
場所:濱田庄司記念益子参考館館内、および濱田窯長屋門
栃木県益子町益子3388、3387
日時:7月28日~8月11日 9時30分~17時
定休日:月曜日
長屋門は入館無料ですが参考館会場のみ別途入館料必要

おに、おわす

「お前は、鬼か?」わたしの口から鉛のような言葉がどすんと落ちて、「お前は、鬼か」あなたの口から寂寞たる言葉がぽろりと落ちる。
「お前はわたしが鬼に見えるのか?」
「ああ、わたしにはお前がそう見える」
「こんな暗闇に、鬼のわたしが見えるのか?」
「ああ、そう見える」
「暗闇に、もの見るお前が鬼とは違うのか?」
「さぁ、そうかどうかはわからない。わたしはそういうことが最近つくづくわかならなくなってきた。そういうお前はどうなんだ、暗闇に、ものが見えるお前はどうなんだ?」
「わたしもそういうことが最近つくづくわからなくなってきたんだよ」
「おまえは鬼か?」
「いや、わたしは鬼じゃない」
「それならわたしも鬼じゃない」
「なぜそう思う?」
「なぜそう思う?」
「いや、わたしは鬼なのか。鬼を見るわたしが鬼でなかったのなら、どうしてわたしが鬼を見ることができようか」
「それなら、わたしも鬼なのか」
「そうか、それならおまえは鬼だ」
「そうか、それならおまえも鬼だ」
「いやいや、わたしは神なのだ」
「ずいぶん勝手ないい分だ」
「ずいぶん勝手ないい分だけれども」
やーやー、われこそは神だ、とその鬼は言った。
やーやー、われこそは鬼だ、とその神は言った。

みよたの広場

2022年〜2023年はみよたの広場にかかりっきりだった

場所:長野県御代田町
設計施工:劇団きこり
協働制作:一般社団法人御代田の根
協賛:日本財団「第三の居場所プロジェクト」

もっとシンプルに

『土と土が出会うところ』は反射をひとつのテーマとして書いていました。私という身体を鏡として反射しあっている「土と土」、その自然の様子(音)を言葉へと変換することで、人に読んでもらえるものとしました。もちろん、その時から、たとえば浄土と穢土という反転にも自覚的でありましたが、『星(ほし)と塩(しほ)との遠近』でもって、その中心にあった身体という鏡をひとつ後退させ、ものとものがそこに反転した状態でただただ〈複雑ながらも〉在る、ということを記してみました

けれども、書くという行為の時に引っ張り出してきた心身が、自分で自覚していたよりだいぶ社会化してしまっている、というのがこの夏に気がついたことでした

リハビリテーションとして、詩を書いていこうと思っています。ものとものがそこに反転した状態でただただ〈シンプルに〉在る、ということが記せるようになりたい

書くことは旅をすること

わからないところにいて、よりわからなくなるために移動してみることを旅と呼ぶのだと思う。文章を書くことは旅をすることと似ていると人が言うのは、そのことを指して言っているのだと思う。わからない、ということはちっとも怖いことではない。でも、わからない、という出会いをやめてしまうことは僕にとってはとても恐ろしいことだ(Isla Mocha, 2009)

テーブルセット


この場所に出会った時、久方ぶりに膝から崩れていくほどの揺れを自分自身の内部に感じた(九鬼浦、2023)

おん、だいた

あの山が、人にとっての風景なのではなく、自然にとってのひとつの出来事なのだとする感性があったのなら、きっと、それは全体としてありありと見えるのだろう

ただ、現代人である今の私には、それがどうしても見えない

それでも、山と山とのあいだにそれが座していることが体感としてわかるのだから、センサーとしての私の身体は、そんなに鈍いものではないのかもしれない

なんなら、だいたら、いいのよ
だって、
あなたもわたしも
あったものではないのだから

そう言ってくれているのが、私に、聴こえる
いや、私は、そう聴こえたふりをしている

だいたら、だいた
おん、だいた
互いにだいたら、あなたもわたし
どのみちひとり
だいたら ぼっち

暴力的にも、そんなふりをして
わたしは、垂直的な時間の中で
あなたを、とっぷり、抱いている

しかし、感じてみるとその熱量は、わたしにとってはあまりにも膨大すぎて御(ぎょ)しがたく
恐れをなしたわたしの一部が、それを名前として閉じてしまう

敬意を評して「おん(御)だいた(代田)」

そして、それは大きく捉えれば間違った行為ではなかったのだろう、と、我に返った、私は、そう思う
場を開きっぱなしにする癖のある私に「閉じるのも優しさだよ」と言ってくれたのはSさんだった

またいつの日か暴れるその日まで
せめてそれまでどうか健やかで

山あいのあいまに、ごろねん、ねんね
静かに、静かに、おねむりなさい
いつかまた暴れられる、その日まで

ひととつち

ひととつちはほぼ同義である。加えて言うならみずもまた(写真/矢野津々美)

干す人

本州の最北の地で海藻を干す人と小屋(大間、2017)

賽の河原

最果ての賽の河原(恐山、2017)

聖地

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15年ぶりに訪れる聖地は、15年の月日をどう飲み込んだのだろうか

空/家/大地

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空と大地を繋ぐもの(沖縄、2015)

存在

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ただ、そこに在るということ

音の孤独

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か細い棒切れに結ばれた赤い布があちらこちらで風を受け、へんぽんと翻っている。揺れる布は、こんにちは、そんな風に言っているようでもあるし、さようなら、そんな風に言っているようでもある。こんにちはとさようなら、その両の手に掴まれて身動きが取れなくならないよう、できるだけ私情を挟まずにぽっぽぽっぽとハトのような返事をする(ハト本短編第四集『笑い』より抜粋)

梅雨

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花がてっぺんに来たら梅雨があけるんだよ、そうおばあちゃんに教えてもらったという記憶はないけれども、そう、おばあちゃんが言っている気がする

落ち葉さらい

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歳くったら一個百円とかの仕事じゃなくって山でも奇麗にしたいなぁ、そうつぶやく山崎のお父さん。原発事故後、断念していた落ち葉さらいを再開するべきか迷いは続く

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あっちからこっちに流れる生活の糧

旧年

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新年に旧年を思う

逆襲

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ジャングルのジム(オン・ザ・ロード/ルート4)

収穫

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今年もこの季節か、という風に考えることもあるけれど、毎回毎回、なんとかここまで来ることができた、というほうが気持ちに正直な感想です

ごちそうさま

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旅先でおいしい食べ物を食べたり素敵な出会いがあると、もちろん「ごちそうさま」「ありがとう」と言うべきひとに言うけれど、それでもそれを述べ足りないように感じるときがある。そんなときにこそ、その土地の神様っていてくれているような気がして、僕は、その土地にある神社に行って「ありがとうございます」とお礼を言うんです。

そんなことをおっしゃるお客様を益子にお迎えして、僕の大好きな神社にお連れする、そして、「すんごい神社だ!」と喜んでくれたときの充足感って、、、、。当然、私も神様に「ありがとうございます」とぺこり。

もう、ないよ

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最後の最後に

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撤収だ!と言われて最後の最後にボールを蹴り込んだ男、それを見守った女、それを想像するわたし。

浜吉田

2013021701

ハトを無事に家に返すひとつの力となるのが、愛、だといいます。「家に(のっけてくれる)かーちゃんが待ってくれていると思うと誰だって帰りたくなるだっぺ」とは山崎さんの弁。寄り添いながら身を守り、寄り添いながらよりよい生き方を考えるのが、種のとってきた道なのかな。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

ゆめ、うつつ

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数年前、ここで田んぼを耕していたあのひとは、この景色を見て笑うだろう、泣くだろう。ゆめ?うつつ?はっとするほどの黄色い大地を、今は雪が白く染めていること、私は、私の山の白さの中で、夢想する。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

楢葉の神社

駅前の神社、多分ここは毎日毎日「こんにちわ」という言葉や想いが溢れるところだったでしょう。今、それはなく「さよなら」があるだけ。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

北茨城

どこを飛ぶともわからぬ大地と空にあって、通ってくれたらいいなと思いながらまちぶせをする。地形や風を読んではいるけれど、無駄を覚悟でまちぶせる。じっと息をひそめて待っていると、その息が次第に環境に溶けていくのがわかる。動物も山も人もなにもないような気になる。けれど、待ち望んでいたあなたが目の前を通ると、はっと、全てがまた環境から突出して、人間だ!という気持ちが一気に沸き立つ。鷹もそんな感じではっとなって、ハトを襲撃している。そういやー、君もハトくんを待っていたんだよね。(オン・ザ・ロード/ Route 6)

綱神社

ひとが目で感じて捉えている世界は、世界のほんの一部でしかないということを、ここ尾羽の里にある綱神社に展開した川崎義博さんのサウンドインスタレーション作品で確認しましたが、サウンド、といわれると耳のことのように思われるかもしれません。しかし、耳が感じていることもまた、ひとが感じていることの一部でしかないでしょう。それじゃあ、五感で感じればそれが世界の全てなのかというと、そうじゃない、まさにそのことに気づかせてくれるのが、川崎作品の魔術なのです。

最後の冒険家

石川直樹さんが最後の冒険家と称した神田道夫さん。彼が最後の冒険へと飛び立つ最後の最後に踏みしめただろう大地は栃木でした。毎年、冬のおなじころでしょうか、何艘もの気球が家の上空を流れていくのに出くわします。空に浮かぶ気球を見ると、ふと、神田さんの目線が意識されるのです。海しかない、そんなところに不時着する気持ちなど私からは遥か遠いはずなのに、一瞬ですが、その海を感じるのです。海に面していない栃木にいて、そんなことを可能としてくれる、一年のうちでも貴重な日。きっと私の中で、神田さんはまだ冒険の途中なのでしょう。