Archives for the ‘文’ Category

おに、おわす

「お前は、鬼か?」わたしの口から鉛のような言葉がどすんと落ちて、「お前は、鬼か」あなたの口から寂寞たる言葉がぽろりと落ちる。
「お前はわたしが鬼に見えるのか?」
「ああ、わたしにはお前がそう見える」
「こんな暗闇に、鬼のわたしが見えるのか?」
「ああ、そう見える」
「暗闇に、もの見るお前が鬼とは違うのか?」
「さぁ、そうかどうかはわからない。わたしはそういうことが最近つくづくわかならなくなってきた。そういうお前はどうなんだ、暗闇に、ものが見えるお前はどうなんだ?」
「わたしもそういうことが最近つくづくわからなくなってきたんだよ」
「おまえは鬼か?」
「いや、わたしは鬼じゃない」
「それならわたしも鬼じゃない」
「なぜそう思う?」
「なぜそう思う?」
「いや、わたしは鬼なのか。鬼を見るわたしが鬼でなかったのなら、どうしてわたしが鬼を見ることができようか」
「それなら、わたしも鬼なのか」
「そうか、それならおまえは鬼だ」
「そうか、それならおまえも鬼だ」
「いやいや、わたしは神なのだ」
「ずいぶん勝手ないい分だ」
「ずいぶん勝手ないい分だけれども」
やーやー、われこそは神だ、とその鬼は言った。
やーやー、われこそは鬼だ、とその神は言った。

Perfect Days

“The House of the Rising Sun” Alan Price
“Pale Bluer Eyes” The Velvet Underground
“The Dock of the Bay” Steve Cropper
“Redondo Beach” Patti Smith
“Sleepy City” The Rolling Stones
“青い魚” 金延幸子
“Perfect Day” Lou Reed
“Sunny Afternoon” Ray Davies
“Brown Eyed Girl” Van Morrison
“Feeling Good” Nina Simone

これはヴェンダースの最新作「perfect days」に使われている音楽リストだ。僕は、小学生の高学年から洋楽を聴くようになったから、60年代や70年代のこれらの音楽をリアルタイムではないにせよよく聴いてきた。僕に限らず日本で洋楽を聴いていた人たちは(好きか嫌いかは別にして)おそらく100%に近い確率でこれらの音楽を通過してきたはずだ。当時はグローバルミュージックとこれらの音楽のことを言わなかったと思うけれど、昨今そう呼ばれている音楽などよりもよほど「われわれ」にとって「コモン」なものだった。何せ情報も偏っていたし、ミュージックシーンの多様化も今ほどではなく選択肢は限られていたからだ

良いか悪いかの話ではなく、70歳手前のヴェンダースさんや役所広司さんが60〜70年代を懐かしむように、今の若者が70歳になって振り返り懐かしむような「共通世界」などおそらく存在しない。今、時代は相対化、多様化していて「われわれはあの音楽群を聴いて育った」とか「われわれはあの映画群を観て育った」とかって彼らが語ることはないはずだ

そんな「それぞれ」の時代にあって、かつて西欧近代が理想として掲げた「われわれにとっての共通世界」を実現しようとするような気力を引退間近の人間に求めるのは酷なのかもしれないと思う。むしろ、そんな馬鹿げた理想から「サレンダー」したヴェンダースに拍手を送りたい気持ちもある。僕だって、全体性に包まれるような世界がわれわれの前に現れるその瞬間を手繰り寄せる努力を、半分は諦め、やめているから。でも、諦め切れないでいるもう半分の自分がこの映画を見て「ふざけんじゃない」と憤っている。世界の和平を実現するという口実で、さんざん世界の構造をいじりまくって近代を押し付けてきた西欧の側が、最後の最後に衰えて「和平はそれぞれの心の中にある」みたいなことを言うんじゃない、と。そんなことは茶の間でティーでも飲みながら自分のパートナー相手に語っておけ、と

だから、僕にとってこの映画は衰えた近代からの「手打ち」の映画に映る。しかし、その手打ちの言葉を発したヴェンダースは数々の映画を撮ってきた優れた作家。僕は、やっぱり彼のような世代が作った映画を20〜30代に浴びるように観て育ってきたと思っている。彼の言葉はゆるゆると、かつて聴き込んだ音の調べと一緒くたになって僕の内部にこんな風に染み込んでくる。「ああ、僕もあなたも共に失敗したね」「失敗した、ということであなたと私は共にある」。まるで茶の間に呼ばれてティーを差し出されているかのような気持ちになる

ああ、そうだ、僕も失敗し続けているよ
きっと明日も失敗するだろう

「でも、でも」とわけもわからず涙目になる。映画の中で役所広司が浮かべる涙と、僕が今、浮かべている涙とにどれくらいの差異があるのかそんなことはわからない。わからないけれども、ただ悲しいから泣く、とか、嬉しいから泣く、とかってことではなくわからないまま涙が出るということがわれわれ人間には起こる。複雑さを生きる、生き続ける、生き続けたからって答えなどきっと現れてこないけれど、死をかたわらに置きながら生き続けてみたい、と、そう思っている。もしかしたらヴェンダースも、この映画を撮り終えてそんな気分なのかもしれない、と思う

なんだかんだ21世紀ももうすぐ1/4が過ぎてしまう。この先を、われわれはどのように生きていくのだろうか

もっとシンプルに

『土と土が出会うところ』は反射をひとつのテーマとして書いていました。私という身体を鏡として反射しあっている「土と土」、その自然の様子(音)を言葉へと変換することで、人に読んでもらえるものとしました。もちろん、その時から、たとえば浄土と穢土という反転にも自覚的でありましたが、『星(ほし)と塩(しほ)との遠近』でもって、その中心にあった身体という鏡をひとつ後退させ、ものとものがそこに反転した状態でただただ〈複雑ながらも〉在る、ということを記してみました

けれども、書くという行為の時に引っ張り出してきた心身が、自分で自覚していたよりだいぶ社会化してしまっている、というのがこの夏に気がついたことでした

リハビリテーションとして、詩を書いていこうと思っています。ものとものがそこに反転した状態でただただ〈シンプルに〉在る、ということが記せるようになりたい

怪物

反射、反転、最近では回生(リジェネラティブ)という言葉がわれわれ劇団きこりにとって主題となっておりますが、是枝監督の『怪物』という映画を見て、転生ということを再度考えるようになりました

輪廻転生というのは、ある種、前世と次世を持ち出すことで今回の生をどうにかして慰める必要がある、という差し迫った必要性から生まれた思想だと思う時があります。しかし、自己の本体と宇宙の本体が本質的には一体であるのだとすれば、転生というのはひとつの生で起きて巡り廻るものだとした方がなんとなく腑に落ちる気がします。なぜなら、前世も次世も宇宙的には今この一点に同時にあるはずでしょう?そして、親鸞が言った「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのは、自分が「善人」だと思っている人間には転がる余地が少ないけれど、鬼に落ちてしまった人には「今この時」に反転する余地がまだ残されている、ということを言っているような気もします。鬼に落ちて「救われたい」と思い発するその時のその人の言葉は、善人の軽薄な言葉よりも距離が伸びる。鬼に落ちたからこそ、そこから反転した神のような存在となれるのだと思います

映画『怪物』では、人が「鬼」へと落ちるその過程が丁寧に描かれています。人を鬼へと落とすのはやっぱり善人のしわざで、善人が軽率にやーやーと騒ぎ、追い立てられて鬼は搾り出すようにやーやーと泣く。しかし、社会の側に残れるのは善人の方ですが、転生が起きて別の次元へと移っていけるのは鬼の方だということです。映画の最後、まさに出産シーンのように、母体(バス)から(性別を超えた)人がふたりぽとりと産み落とされました。ふたり軽やかに笑いながらもつれるようにして走っていくその世界は眩しくひかり、そしてなんとも美しい。鬼は別のものへと転生し、新しい世界へと産み落とされたのです

おん、だいた

あの山が、人にとっての風景なのではなく、自然にとってのひとつの出来事なのだとする感性があったのなら、きっと、それは全体としてありありと見えるのだろう

ただ、現代人である今の私には、それがどうしても見えない

それでも、山と山とのあいだにそれが座していることが体感としてわかるのだから、センサーとしての私の身体は、そんなに鈍いものではないのかもしれない

なんなら、だいたら、いいのよ
だって、
あなたもわたしも
あったものではないのだから

そう言ってくれているのが、私に、聴こえる
いや、私は、そう聴こえたふりをしている

だいたら、だいた
おん、だいた
互いにだいたら、あなたもわたし
どのみちひとり
だいたら ぼっち

暴力的にも、そんなふりをして
わたしは、垂直的な時間の中で
あなたを、とっぷり、抱いている

しかし、感じてみるとその熱量は、わたしにとってはあまりにも膨大すぎて御(ぎょ)しがたく
恐れをなしたわたしの一部が、それを名前として閉じてしまう

敬意を評して「おん(御)だいた(代田)」

そして、それは大きく捉えれば間違った行為ではなかったのだろう、と、我に返った、私は、そう思う
場を開きっぱなしにする癖のある私に「閉じるのも優しさだよ」と言ってくれたのはSさんだった

またいつの日か暴れるその日まで
せめてそれまでどうか健やかで

山あいのあいまに、ごろねん、ねんね
静かに、静かに、おねむりなさい
いつかまた暴れられる、その日まで

8月 Book Event

白線文庫のブックイベント
東野翠れん+町田泰彦「声のなるほうへ」

8月6 – 7日 13:00 – 17:00
at Librarie by HAKUSEN
鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎619 旧さくら小学校 1F

8/6(土)
15:00
朗読&トークイベント〈リブラリエ〉
17:00
「ハトを、飛ばす」(72分)上映会〈jig theater〉

8/7(日)
15:00
朗読&トークイベント〈リブラリエ〉

ご予約は白線文庫online storeからチケットをご購入ください
https://hakusenbunko2010.stores.jp/

7月 Book Event

ROOTS –
pickandbarns 40th Anniversary Exhibition & Event
2022年7月16日(土) -18(月/祝)
Open 10:30-Close 19:00
福島市大町9-16

タイアップイベント@Books and Cafe コトウ

町田泰彦 × 笑達展
「土と土が出会うところ」
/ 上映会&お話会(要予約)
Open 11:00 – Close 19:00
7月16日(土)
●14:00~14:30 短編映画「益子方丈記」上映(24分 / 参加費・無料)
●14:40~17:00 短編映画「ハトを、飛ばす」上映(72分)
朗読/おはなし会 町田泰彦 (参加費・¥1000+ one drink ¥500)
7月17日(日)
●14:00~14:30 短編映画「益子方丈記」上映(24分 / 参加費・無料)
●14:40~17:00 短編映画「ハトを、飛ばす」上映(72分)
朗読/おはなし会 町田康彦×コトウ店主 小島雄次 (参加費・¥1000+ one drink ¥500)
7月18日(祝)

●14:00~14:30 短編映画「益子方丈記」上映(24分 /参加費・無料)
●14:40~15:45 短編映画「ハトを、飛ばす」上映(72分 / 参加費・¥1000)
福島市宮下町18-30
books.cafe.kotou@gmail.com
Instagram : @kotou.books.cafe
◆上映会&お話会のご予約は店頭、メール、SNSのDMでお問い合わせください。

新刊

『土と土が出会うところ』

絵・写真を含む全7章

Ⅰ 水と水が出会うところ
Ⅱ 喫茶ウェリントン
Ⅲ 星日月(ほしひーつき)
Ⅳ ポポウのみた夢
Ⅴ いつもの場所
Ⅵ みずろく
Ⅶ 黒猫のようなもの 白猫のようなもの

ページ数 128ページ
サイズ  148mm x 210mm
出版   shushulina publishing
ISBN    978-4-9912268-1-6
価格   2500円+税
2021年10月28日 発刊​

https://www.shushulinapublishing.com

ふたりのあいだ

ざーざーざー、と寄せては返す波の音がする。波を砕くテトラポットも波を防ぐ防波堤もなんにもない世界で、海の温かさを共有しながら波打ち際でひたひたとふたり戯れている。波の音を打ち消してしまわぬよう慎重に言葉を探しながらぽつぽつとふたり語り合っている。

「美しい山という時の美しさと、美しい海という時の美しさは同じではないよね」
「うんうん、同じではないよね」
「私は、美しい海と言うほどには山のことを知らないけれど」
「うんうん、それはどのような関わりを持つのか、ということに違いない」
「いや、私には海のこととて美しいとはまだまだ言えない」
「うんうん。最近、粘土を手にすることが増えて私は山の存在がとても気になっている」
「うん、そうだった」
「でも、その山のいただきに海の痕跡であるチャートを拾うことがある」
「うんうん」
「波打ち際の砂の表情のように人間は消滅するって言う時の人間に、ついぞ私たちは乗っからなかった」
「うん、乗っかったためしはなかった」
「美しい山と言う時の美しさか」
「うん、山が美しいと言う時の山か」

ひっつきながら話していると互いの主張がこんこんと混ざりあっていくような感覚があって、うんうん、とする相槌ももはや自分に向かっているのか相手に向かっているのかわからなくなる。そういうことがどんどんとわからなくなって闇も深くなり、ヒーナは寝ているのか、起きているのか、死んでいるのか、生きているのか、その彼岸と此岸の両方の縁に触れているような気分にしっとりと沈んでいくのだった。そして、ふたりのする話はいつまでも進化過程の両生類みたいに、一歩陸地に這い出してはずりずり海へと踵を返す、そんなまどろっこしい停滞の中にあった。まるで、終わりと始まりが同時にその波打ち際にあるかのようだった。ヒーナは「ねぇ」とすいに声をかけた。すいは「なに?」と返事をした。ヒーナは、ねぇ、よりも先に言葉を足さなかった。すいは、なに?、よりも奥に言葉を探さなかった。ねぇ、と言った時、ヒーナはもうはんぶん寝入っていた。ヒーナの身体がぴくりとミオクローヌスを起こしている。それはもしかしたら人が水の中で息をする生き物へとゆっくり変成を遂げているその微かな兆しなのかもしれない、とすいはヒーナの身体に触れながら思ったのだった。

絵:笑達
文:町田泰彦

黒猫白猫

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ミチカケ連載『土と土が出会うところ』
第6回目「黒猫のようなもの、白猫のようなもの」

根っこをいじっているからか、どこかみんな、なんとなく、ふかふかとふわふわとしていて、柔らかかった。そう、震災と原発事故を経たこの時期、私のまわりのだれもがなんとなくとふわふわしていた。それに伴い当然に双方を含んだ空気も、ゆらゆらと、揺れていた。けれどもそれは不確かなものを確かなものと偽っていた頃の揺れとは違い、何もないところから何かが始まるときの革新的なゆらぎだった、ときっと数年経って振り返ればそうだった、と言われるもののようにその時の私には思えたし、今もそう思っている。(一部抜粋)

みずろく

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季刊誌ミチカケに連載中の『土と土が出会うところ』に、「みずろく」を寄稿しました。書きながら、だんだんとミズロクがなんなのかが、じんわりと自分にも分かってきて、発見の多い執筆時間でした

音の孤独

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か細い棒切れに結ばれた赤い布があちらこちらで風を受け、へんぽんと翻っている。揺れる布は、こんにちは、そんな風に言っているようでもあるし、さようなら、そんな風に言っているようでもある。こんにちはとさようなら、その両の手に掴まれて身動きが取れなくならないよう、できるだけ私情を挟まずにぽっぽぽっぽとハトのような返事をする(ハト本短編第四集『笑い』より抜粋)

サンコウチョウ

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目を閉じると闇がある。一周ぐるりと回って触れたかったあの子の肩が、その闇にある。その闇のなか、長い長い尾が限度もなく落ち続けている。その落ちた尾を追う者はない(ミチカケ「土と土が出会うところ/サンコウチョウ」より抜粋)

こつぜん

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祖母は、私の小屋を見ずに死んでいった。けれども、生きていたとしたら小屋を見に来たか、そう自問すると、それはありえない、と自答するしか他にない。であれば、死んでしまった今の方が、祖母は、私の小屋の近くにいるということになりはしないか。私の小屋の前には、見えないくらいの量の水が流れる川がある。数日雨が降った後にそれはこつぜんと現れる。その、こつぜんと現れる川にあわせて。(『ハトを、飛ばす』連作のうちの三冊目「こつぜん」より)

里の舞い

本物の海の音、本物の踊り、本物の言葉や歌はどこかにある。それはただ、聞かれたり見られたりするのをじっとどこかで待っている。私がそこへ辿り着くのを待つともなく待っている。
本物の海の音は聴いたことはないかも知れないけれど、優れた映画を観たときにその音を聴いたように思えたことがある、と私は、私としてはめずらしく長い間黙った後に言った。女は素直に、ぜひその映画を流している小屋に私を連れていって欲しい、と可愛くせがんだ。(中編小説「穴よ、海よ」より抜粋)

白菜の海で

土の恩恵を存分に受け、そこに根ざしながら空高く飛ぶ術を知っているハトのようなひとりの農夫が私の町には住んでいる。巣に返ってきたハトを迎えるとき、うまくなった農作物を前にするとき、今まさに舞の途中であるといった笑いを彼は顔に浮かべる。土地と空とは、それぞれがそれぞれを映した鏡像だ、ということを鳥が空を通して知っているように、ハトをやる農夫は土を通して知っている。何百キロ飛んで返ってきたハトを見るとそれがどんな旅だったのか全てわかる、と言う土に活かされ空を知る彼こそが、空と土地の間にある一枚の鏡なのかもしれない。 (「ハトを、飛ばす」本文より抜粋)

音の孤独

老舗のデパートの外壁を色取る国旗が風を受けてへんぽんと翻っている。ホシムクドリの体に浮かんでいる星が小さな四角い青空にも同じように散らばっている。動きをもらった赤い直線のストライプが、静かに眠る森の住人を煽っている。

祖父は、静かにこう話し始めた。まるでそこが戦場で、私が敵に見つかってしまうことを怖れているかのように。

「私はいつ死んでしまうかわからないから、このことだけは話しておきたいとずっと思っていたんだよ」(『ハトを、飛ばす』本文より「音の孤独」)

祖父が語った戦争の記憶は、私の側の言葉とは分離して、語られたときのまま、国旗を揺らす風の届かぬ底に今も沈んだままでいます。